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トヨタ自動車社長 張 富士夫(ちょう ふじお) さん
1937年、中国・大連に生まれる。東大法学部を卒業後、「大学の剣道部の先輩に誘われた」こともあり、60年にトヨタ自動車工業(当時)入社。88年に米ケンタッキー工場の社長として生産を軌道に乗せた。96年6月から奥田碩現会長の後を受けて社長に。66歳。 |
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「ひとつには生産台数が落ちないように、努力する。もうひとつは、忙しいからといって、人を採りすぎないことです」

――売上高が十六兆円、経常利益が一兆四千億円(いずれも二〇〇三年三月期)と絶好調です。全米の自動車販売台数は、八月に三位に入り、ビッグスリーの一角を崩しました。空振り三振とは縁がないトヨタ自動車のエネルギーの基礎にあるものは何ですか。
「トヨタの経営をお預かりしてから、生産と販売と研究開発、つまり経営の三つの要素のバランスがとれていると感じているんですよ。トヨタ単独決算に対する連結対象子会社の業績の比率(連単倍率)も、国内と海外の生産台数のバランスも。ただ、油断すると、空振りすることもあると思いますから、やはり人を育てることが大切です」
――以前、アメリカの格付け会社が、トヨタの長期雇用を理由に格下げしたことがありました。八月に五年ぶりに最高位の「Aaa」に戻しましたが、今度は長期雇用のプラス面が評価されたわけですね。
「アメリカのケンタッキー工場に行っていたころ、日米の仕事のやり方を比較しながら、物事やシステムには、強い面と弱い面があるなあと感じてきました。日本で言われる終身雇用は、生産が右肩上がりの時には、従業員のロイヤルティー(忠誠心)に支えられ、質のいい製品を効率よく作ることに適しています。逆に生産台数が減ってくると(解雇するわけにはいかないという)弱みがある」
――では、その弱みにどう取り組みますか。
「ひとつには世界全体のトヨタ車の生産台数が落ちないように、欧州で新車を生産するなど一生懸命努力する。もうひとつは、忙しいからといって、人を採りすぎないことです。私が係長や課長のころ、大野耐一さん(トヨタ生産方式を推し進め、副社長で退職)に『簡単に人を増やすな。どこまで努力したんだ。簡単に首は切れんぞ』と、しかられていました。格付けが変わっても、トヨタ自体は変わっていません」
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――レクサスブランドの高級車(RX330)を日本以外で初めてカナダ工場で作り始めていますが、作業員は日本で訓練したそうですね。彼らにトヨタのモノづくりの機微を踏まえた技能がきちんと理解できますか。
「彼らも、日本人が丁寧にモノをつくるということをよく知っていて、負けずに、その技能を盗みとろうという気持ちが大変、強いですね。ケンタッキー工場で乗用車カムリを生産し始めたときのことです。すでに愛知県豊田市の堤工場で二年前から作っていました。私たちが、『品質が劣ったら、顧客から日本製のカムリをくれと言われる。そうなったら、お前たち、食っていけないぞ』と言うと、みんな必死にやってくれました。今度のレクサスは部品点数も多いですが、カナダ工場では、日本に負けない品質をと燃えています」
――日産自動車のカルロス・ゴーン社長と会ったときに、成功した理由は何かと聞いたところ、彼は日産を船にたとえて、「火災を起こして燃えさかっていたから、みんな一生懸命、船長の指示を聞いてくれた」と言っていました。トヨタは火災とは無縁でも、大企業病とどう闘っていこうと考えていますか。
「いろんな競争状態に置くこと、常にチャレンジすることが、大企業病から逃れる道だと思っています。幸いにも世界中に好敵手はいっぱいいます。台数で勝っても利益率では負けているとか。足らないところを補う努力が大事です」
――ところで、名古屋駅前に二〇〇七年に完成する豊田・毎日ビルに、東京本社の機能の一部を移しますね。グローバル企業があえて名古屋に拠点を移す理由は?
「これまでは、成田空港に到着している海外のお客さんに、わざわざ豊田市まで来ていただくのが大変で、海外部門を東京に置いていました。中部国際空港ができると、名古屋で出迎えることができるようになる。工場を見るにも、名駅から四十五分もあれば豊田市に行ける。そういうことが可能とみて、海外営業部門の一部を移すことに決めました」
――高度道路交通システム(ITS)の国際会議が来年十月、名古屋で開かれます。高齢化社会の車を考える良い機会ですね。
「誰でもやさしく使えるような車の仕様、つまりユニバーサルデザインということを、トヨタはやっています。今度のハイブリッドカーのプリウスも、モニター画面で後方の駐車位置を示してやると、ほとんどハンドル操作をしなくても縦列駐車ができる機能を備えています。アメリカでは八十歳近いお年寄りも運転していて、駐車に困ったりしていますから、こういう機能を車に付けてあげたいですね」
写真(上)=トヨタ自動車社長 張 富士夫(ちょう ふじお)さん
写真(下)=新型プリウス発表の席で、縦列駐車の機能など新技術を説明する張社長
トヨタ自動車--------------------------------
本社は愛知県豊田市トヨタ町1番地。豊田式自動織機を発明した豊田佐吉翁の長男、喜一郎氏が1937年にトヨタ自動車工業を設立。50年に経営危機に陥ったが、融資条件の一つとして販売部門をトヨタ自動車販売に分離した。82年に「工販合併」を実現し、84年に米国でGMとの合弁生産、88年にケンタッキー工場でトヨタ単独生産を開始。現在、欧米、中国など世界26か国・地域に生産拠点を持つ。
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進む現地化 批判へ緩衝材
張社長がケンタッキー工場から一時帰国した一九九四年の取材で、印象に残る言葉があった。
当時のクライスラーの社長に「これだけアメリカ人を雇い、アメリカの部品を使っているのに、アメリカ車とかアメリカの会社と認めてくれないのか」と聞いたところ、「それは一番の頭脳である設計をやっていないからだ」と言われたというのだ。
その後、アメリカで製造するカムリなどで設計・デザインの現地化が進んだ。トヨタは八九年には、北米の経験を生かして欧州にデザインスタジオを設けた。
トヨタの今年の北米販売台数は、二百万台突破が確実だ。九〇年代の日米貿易摩擦の矢面に立たされてきたトヨタにとって、米国側を刺激しそうな数字だが、ケンタッキー工場を発端にして世界で推し進めてきた現地化と高品質化は、日本車批判への緩衝材となっているといえる。
経済部 西村 公秀 |
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(
2004年10月15日
読売新聞)
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